浄土宗 悟真山 光明院 善導寺

お寺の墓地に眠る偉人たち

山片蟠桃(1748~1821)

 山片蟠桃は、播州国印南郡神爪村[かづめむら](今の兵庫県高砂・加古川両市境)の長谷川小兵衛の次男として生まれる。13歳の頃大坂に出て、「升屋」[ますや]へ丁稚奉公することになった。彼のすばらしい才能に目をつけた山片家(升屋)の主人は、当時有名だった「懐徳堂」[かいとくどう]に入門させ、勉学にうちこむように励ました。主人の恩に報いようと、一心に儒学の勉強をした蟠桃は、すばらしい成績をおさめ、懐徳堂の諸葛孔明といわれるほどになった。
 蟠桃はその後、山片家4代目「重芳」[しげよし]を助けて番頭になり、升屋を仙台藩をはじめとする数十藩を相手に商売をする豪商にまで成長させた。後にその功績が認められて親戚扱いとなり、姓を山片と改め、山片芳秀[よしひで]と名乗った。蟠桃はその号で、いつまでも番頭であることを忘れないよう番頭をもじったものといわれている。
 
学問は懐徳堂で中井竹山[ちくざん]・履軒[りけん]に儒学を学び、さらに麻井剛立[ごうりゅう]に新しい天文学を学んで、蘭学にも深い関心を持つに至った。54歳の時に『夢の代』の著述に取りかかるが、途中で妻を亡くし、自身も失明する。しかしそれに屈することなく、起稿後19年目の73歳のとき、ついに大著を完成させた。卓抜な経済論をとなえ、一切の神秘主義を否定して無神論を主張するだけでなく、地動説を確認したうえで、宇宙には私たちの太陽系と同じものが無数に存在するという、大胆な大宇宙論さえ展開した。「地獄なし極楽もなし我もなし、ただ有物は人と万物」、「神仏化物もなし世の中に、奇妙不可思議の事はなおなし」という歌は有名。
 法名は釋 宗文 文政4年(1821)2月28日寂 享年74歳。尚、大阪府では昭和57年より(岸昌知事発案)大阪の生んだ世界的な町人学者である蟠桃のことに因んで、日本文化を世界に知らせ、国際性を高めた優秀な著作を顕彰し、その著者に「山片蟠桃賞」を贈呈している。

近藤宗悦(1821~1867)

幕末期に大坂で活躍した尺八の名手。関西宗悦流の流祖で,道信とも号する。長崎出身で,もとはチャルメラが上手であったので「チャルメラ宗悦」と呼ばれていた。京都に出て明暗寺の役僧となり,同寺の役僧であった尾崎真竜から明暗[みょうあん]真法流[じんぽうりゅう]の尺八本曲を学んだ。しかし,宗悦は外曲(箏,三味線との合奏曲)に力を注いだため,真法流本曲は弟弟子の勝浦正山が継いだ。その後,活動の中心を大坂に移してからは多くの門人を得て,世に「尺八長者」とうたわれ,すぐれた弟子を輩出した。また,箏奏者の古川斎[ろうさい]を養子とし,地歌箏曲界とのつながりも深く,関西において三曲(「箏曲[そうきょく]」といわれる箏[こと]の音楽と、「地歌[じうた]」といわれる三味線の音楽と、それに尺八の音楽の三つの総称)合奏の先駆者とされる。

西山芳園(1804~1867)、完瑛(1834~1897)

芳園…江戸時代後期の大坂を代表する画家。松村景文に四条風の画法を学ぶ。主に人物・花木・景色を写生し、淡い筆線で非常におとなしい画が特徴である。一日で半切2、3枚は日課のように描いていたという。慶応3年11月8日死去。64歳。

完瑛…芳園の子。画法を父に受ける。父に比べると鋭角的な筆線であり、美人画を得意とした。また儒学を後藤松陰の門に学び、播州明石侯に仕える。明治30年(1897)歿、64歳。

芳園・完瑛親子ともに、町屋の床の間に他の調度品と融合し、自己主張しすぎることなく、それでいて非常に映える作品が多くみられる。

 

CONTACT

大阪市北区、天満寺町の一角にある浄土宗寺院。奈良東大寺の俊乗坊重源上人開基の摂津渡辺道場を発端とする。文禄元年(1592)傳譽慶公上人が念仏道場として開山した。江戸後期の町人学者・山片蟠桃、三曲合奏の先駆者・近藤宗悦、大阪画壇の西山芳園、完瑛父子の墓がある。

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